ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体―ナショナリズムの起源と流行』(白石さや、白石隆訳、1997年)
を読んでて、
Ⅲ 国民意識の起源
この章では
- 欧州でラテン語はグローバル言語
- グローバル語から国語の出版勃興
- バラバラだった土着語が出版によって共有・理解
- 帰属意識の形成
この流れで議論が進む。そして
国民的なものと想像される共同体の胚を形成(p.84)
つまり、その地域でその言語を使う人が出版によって言葉を共有する。
これで同朋意識が芽生える。
言語(出版)は国民意識を形成する。
たとえば、今ではSNSもそうですね。
このブログでも、日本語を使うことで、なんだかんだいっても我々は一応
「日本人である」
これを無意識に共有している。
英語圏ではこれができないところもあります。
パッと思い浮かぶところだと
- アメリカ(ネイティブアメリカ人)
- ウェールズ(ウェールズ人)
- スコットランド(スコットランド人)
- オーストラリア(アボリジニ)
- ニュージーランド(マオリ)
などです。
( )の中の人たちにとって、英語は外国語です。
でも気づいたらその外国語を母国語として使う状況になっています。
使ってるのは英語だけど、国民意識は「アメリカ人」「ウェールズ人」「オーストラリア人」。
これだと自分の国民意識はどこにあるのか、自意識(アイデンティティー)が揺れますね。
言語はその人や国にとって重要である。
母国語の重要性については
施光久恒『英語化は愚民化:日本の国力が地に落ちる』第1章から見る日本の政治の軽薄さ
施光久恒『英語化は愚民化:日本の国力が地に落ちる』(集英社 2015年)第1章をまとめながら、考察しました。日本の英語教育は本来あるべき「学術」でなく「社会」の要望に毒されています。ここでいう社会は聞こえが良いですが、「財界」の要望です。
ここでも書いてます。
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