多文化共生、それ自体は尊い。しかし…
この記事の結論は、政府や自治体が推進する「多文化共生」は反対、です。
案を読んでみましたが、愛知では特に
- 多文化共生の前提
- 言語習得を甘く見ている
以上が問題でした。
前提ですが、文化や言語を異なる人々を理解しようとする気持ちは大切です。
個人や民間で目標とすることは大切です。
しかし「外国人との共生反対」という多様性もあってよいはずです。
それを無視して、問題点があるのに進めようとしても良いことがありません。以下
パブリックコメントを送ってみました。以下のその文です:
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案を読みましたが、反対です。
個人が異文化理解をしようと心がけることは大切で尊い行為です。
しかし、自治体や政府がこのレベルの案で「多文化共生」推進するのは間違っています。
安易に言語や文化の異なる人同士が「共生」する(させる)ことで、必ず衝突や問題が生じます。
多文化の衝突は溝が大きいです。
グローバル化したヨーロッパやアメリカがどうなったか理解されていますか?
理想を追い求めるのは良いですが、「多文化共生」の現実を見て下さい。衝突と不調和で終わります。時代は反グローバルです。
以下反対の理由を述べます。
まず「プラン策定の背景」で「日本人県民の多文化共生に対する理解が十分に進んでいない。」とありますが、この前提が間違ってます。
失礼です。
愛知県は転勤者が多く、既に多文化共生しています。
「多文化共生社会」の定義も述べられていますが、おそらく「外国人との共生」を曖昧にぼやかしています。
どうせ日本人は外国人対応になれていないだろう、という考えが伝わってきます。
例えば、この案を書いて、推進している方々は、言語や文化を理解しようとしない外国人とシェアハウスできますか?
私はイギリスで寮やシェアハウスしました。
プランの前提がこのレベルで県民に外国人との「共生」を求めるのは無責任です。
また、「日本語教育の推進」とありますが、これも前提が間違ってます。
異文化理解とは何かをはき違えています。
言語習得は異文化理解の最初の一歩です。
他国で生きていくうえでまず不自由ないように、学んで使えるようにしておくことが必須で、これが前提です。
それを学んでいないかのように見下し、愛知に来てもらってから学んでもらおうとする態度が、許せません。
大学で英語教員をしていますが、お試しで海外短期研修に行くか迷っていて「行けば何とかなるでしょ」と海外をなめている学生レベルです。
引率教員のいる短期研修であれば許されますが、ある程度長期間滞在し、労働をする外国人には、渡航前に高い日本語レベルを責任もって要求するのが、自治体及び政府の責任です。
なぜその責任を民間(あるいは現場)に投げますか?
現地の言葉を支障なく使えないと、話せる仲間内だけで固まり、現地人となじまず、その言語もうまくならない。
これで現地の人に「多文化共生だから」と言えますか?
言語習得をさせてから来させてください。
以上、反対です。
民間や個人が目標として掲げるのは自由ですが、自治体や政府は、言語のわからない外国人が愛知に来ないように、規制を強めるのが役目ではないですか?
その規制を理解し、日本語や文化を十分理解したうえで来ていただける外国人はもちろんウェルカムです。
「多文化共生」「多様性」と言っていれば仲良くできる、そんな安易な発想はおやめください。
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何かやるのであっても、たとえば、まずは
- 渡航前に十分な日本語レベルを求め規制する(英語圏では当たり前。たとえばイギリスはIELTS6.0など言語試験が求められます)
- それでも来てしまう人は日本語教育ができる日本人の正規の県職員を増やす
- 「日本語出来なくても日本で働ける」←これは絶対ダメ。言語ができないと現地になじめず、お互いに良いことはありません
以上が必要です。
県からの回答
2023.2.8(水)追記。
回答は↓にでてました。
142件。多いのかな?
読んでいくと「もっと推進して」のような答えが多数。その中で
反対意見がこんな感じでまとめられてる…。
「日本人を優先に」
その通りなんですが、中途半端にサポートしてもたかが知れてるんです。
言語も文化も異なる地で生活するんです。
来ちゃってからサポートしても、遅いんです。
来る前に、読める話せるレベルにしとかないとダメなんです。
外国人が苦労するんです。
お互いに良くないんです。
多文化共生、考え自体は素晴らしいです。
でも、なぜここまでごり押しするのか。
ごく一部の都合や利益のために動いているとしか思えない。
その一部は、安い賃金で働く日本人よりもさらに安く、奴隷として働く外国人労働者を正式に認めようとさせる、思惑があるとしか思えない。
異文化理解できないままの多文化共生は、文化の分断を生む。
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