フランシス・フクヤマ(Francis Fukuyama)
『歴史の終わり』(The End of History and the Last Man, 1992年)
で言及されていた日本の部分を考察します。
気になる引用とその考察です。
武士道は死を賭する覚悟に重きをおく戦士のイデオロギーであったにもかかわらず、怠惰な支配者になることより禁欲的生活や倹約を、そしてとりわけ学問を奨励した。
『歴史の終わり(下)』渡部昇一訳(三笠書房、1992年、p.98)
この手の言及は欲されますね。
武士道と倹約、節制についてです。
現在の日本もそうですが、節約が美徳とされてますね。
それはそれで素晴らしいです。
そのため日本では、禁欲的な労働倫理や道理性をともなう『資本主義の精神』を海軍の科学技術やプロシア憲法といっしょに輸入する必要などなかった。
フクヤマはここで「資本主義の精神」に言及してますね。
要するに功利主義的な視点としての節制は取り入れなくても、そもそも日本にはその考えはあったんだと。
そして続けます
この精神は日本の文化や伝統のなかにはじめから備わっていたのである。
禁欲や倹約を美徳とする文化は、個人が進めるうえでは素晴らしいですね。
崇高です。
しかし、この考えを利用することで他人を苦しめる存在もいます。
政府です。
好景気でどうしようもない場合を除き、政府は国民を助けなくてはいけません。
30年近くも実質賃金上がらず
感染症流行で特定の業態に営業とめさせて
ウクライナ戦争で輸入物価高
電気、ガス、ガソリン代も高騰
こんな時に
「やむにやまれす大和魂…」
「次世代へのツケが」
と言ってる余裕ありますか?
個人が考えることは必要ですが、
こんな時は政府が国民を助けても良いのでは、とも思います。
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